あゆみ
時は文化元年――江戸の町に、ひとりの大工が店を構えました。名を清水喜助。
神田鍛冶町に木の香りただよう小さな大工店を開いたその日から、彼の挑戦は、やがて二百年を超えて続く清水建設という物語の幕を開けることとなります。
江戸、明治、大正、昭和、
時代は移ろい、町は姿を変え、人々の暮らしも大きく変わる中、
初代・清水喜助翁の想いは時代の変化とともに生き、伝統を受け継ぎ、清水建設は未来へと歩んできたのです。
この輝かしい伝統と企業文化によって育てられた兼喜会は、昭和三十五年、
新装なった京橋本社にて全国組織「全国連合兼喜会」という新たな物語を紡ぎはじめました。
幾世代もの手によって受け継がれた”たすき”は今も尚、輝きを失わず
「全国連合兼喜会」は創設半世紀の時を超え、令和とその先に続く未来の章へと歩み出そうとしています。
始まりは、明治二十二年――。
まだ文明開化の熱気が残る東京の街で、清水店はひとつの試みを始めました。社員を「店員」、協力業者を「諸職方」と呼んでいたその時代、互いの親睦と情報交換の場として生まれたのが「カネキ工商会」でした。
幾度もの変遷を重ねながら、清水店の近代化と職方の結束に全身全霊を注いだのが、初代喜助翁の孫にあたる支配人・原林之助。彼こそが兼喜会の生みの親だと今もなお語られています。
しかし、大正元年に原支配人が世を去ると、最大の後ろ盾を失った兼喜会は当時の厳しい時代背景もあり、その数年後に一旦幕を閉じる事と成ります。
この黎明期を、私たちは「前期兼喜会」と呼んでいます。
それでも灯は消えませんでした。
翌年には職方有志が自然と集い、「清水組本店職方組合」を結成。三年後には清水組の公認を受け、名実ともに独自の組合として歩みを始めます。この時代を「後期兼喜会」と呼び、現在へと繋がる道が拓かれていきました。
昭和九年には再び「兼喜会」の名を掲げ、全国の支店に次々とその輪は広がっていきます。そして戦後の混乱が収束した昭和三十五年、九つの支部が手を取り合い「全国連合兼喜会」が結成されました。
その後は統廃合を経ながらも体制は大きく揺らぐこともなく、「兼喜会」は今日まで続いているのです。
清水建設と兼喜会の関係を語るとき、「車の両輪」という言葉がよく使われます。
昭和35年兼喜会報の創刊号(昭和35年10月発刊)の巻頭で、当時の清水康雄社長が
「当社と兼喜会の関係は、車でたとえて言えば、車体と車輪の関係であって、車体があっても車輪がなければ車の使命は果たせません。車輪が丈夫で立派でなければスピードもでませんし、重い荷物を乗せて走ることもできません。会社は車体の整備に全力を尽くしますから、兼喜会は車輪の整備に力をいれていただきたい」
と、車にたとえて共存共栄の理念を示されたことに由来します。
その後、多少ニュアンスが異なりますが、清水建設と兼喜会の「共存共栄・相互信頼の理念」を表す意味で「車の両輪」という表現が生まれたようです。
昭和44年(1969)の全国連合兼喜会10周年式典の席上、当時の吉川社長は
- 「1.当社は受注活動に勝つために、コストダウンに全力を傾注すると共に、科学的な工程管理、施工改善に努め、生産性の向上を図る。兼喜会も労務の調達にとどまることなく、責任施工体制の確立を急いでほしい。」
- 「2.優劣は当然の帰結であり、無為無策のままその場に安住し、いつまでも清水建設の指導理念に順応できない者は脱落のほかない。」
- 「3.時代がどのように変わろうとも、清水建設がある限り、また兼喜会がある限り、苦労を共にして、繁栄を共に分かち合おう」
と、言葉を結ばれています。
現在は、パートナーという言葉も使われていますが、清水建設と兼喜会の両者の関係を示す「車の両輪」の理念は、歴代の社長に引き継がれているのです。
今日に至るまで、この「車の両輪」の志は、清水建設と兼喜会を結ぶ不変の絆であり続けています。
清水建設と兼喜会の歩みをたどることは、そのまま日本近代史を振り返ることに他なりません。振り返れば、穏やかで好景気に沸いた時代はほんの一瞬であり、むしろ長い歴史の大半は、戦争や不況、あるいは天災といった数々の困難が影を落としてきました。
昭和三十年代(1955~1964)、日本は神武景気、岩戸景気と呼ばれる好況に包まれ、戦後復興を果たした国は比類なき勢いで成長を遂げます。街には活気が溢れ、人々の暮らしにも豊かさが広がっていきました。しかしその急激な変化に応じるためには、企業経営の改善や技術革新といった難題が待ち受けていました。
昭和四十年代(1965~1974)、東京オリンピックを終えた後、一時的に停滞の気配を見せたものの、「日本列島改造論」といった国の施策が追い風となり、第2次高度経済成長期に突入します。建設需要は再び大きく膨らみ、業界は力強い繁栄を謳歌しました。
しかし昭和四十八年(1973)、第4次中東戦争を機に起きたオイルショックが日本経済を直撃。石油価格の高騰は景気を急速に冷え込ませ、建設需要は急激に落ち込みます。昭和五十年代(1975~1984)に入ってもその余波は続き、総合建設会社は「量から質」への転換を余儀なくされました。この頃の建設業界は“建設冬の時代”と呼ばれる厳しい局面に立たされます。
やがて昭和六十年(1985)、プラザ合意を契機とした内需拡大政策が取られると、建設投資額は80兆円を超え、業界はかつてない活況を経験します。しかしその繁栄は長く続きませんでした。昭和六十四年(1989)、昭和天皇の崩御とともに平成へと時代が移る中、日本経済は急激に失速。バブル景気は音を立てて崩壊し、好景気の夢は儚くも終わりを告げます。
バブル崩壊後、日本は「失われた30年」と呼ばれる長い低迷期に突入しました。グローバル経済の波が押し寄せ、海外諸国が成長を遂げる一方で、日本は取り残されていきます。追い打ちをかけるように、リーマンショック、新型コロナウイルス、そして地震や異常気象による自然災害が次々と襲いました。東京オリンピック開催による特需はありましたが、東日本大震災をはじめ、災害は毎年のように各地を襲い、人々の暮らしと建設業界に重い試練を課してきました。
今もなお、日本は慢性的な経済停滞や物価高騰、少子高齢化による労務不足といった課題に直面しています。2024年問題をはじめ、建設業界の未来を揺るがす大きな試練は山積しています。しかし、こうした数々の困難を乗り越える事こそが、清水建設と兼喜会に強靭な精神と揺るぎない信頼を育んできた原動力でもあるのです。
幾度も時代の荒波をくぐり抜けるなかで、全国連合兼喜会が守り続けてきたものがあります。
それは、清水建設の期待に応えるために、誰に強いられるでもなく自ら掲げてきた「自主の志」です。
「優秀な技能工の育成」「生産性の向上」「コストダウン」「労働災害の撲滅」
この志を胸に、兼喜会は歩みを進めてきました。そして、その歩みは他社の協力会には見られない独自のものだと、私たちは誇りをもって語ることができます。
時を追えば、数々の挑戦の跡が浮かび上がります。
昭和三十七年(1962)、災害防止への切なる願いから「清水建設兼喜会災害防止協議会」が結成されました。
昭和三十八年(1963)には、玉掛けやガス溶接といった実務に直結する講習会を次々と開催し、技術と安全の底上げを図ります。
昭和四十三年(1968)、若き力に未来を託すべく「兼喜会青年部」が誕生しました。
昭和五十一年(1976)には協力会社互助会を設立し、互いに助け合う仕組みを整え、翌昭和五十二年(1977)には「労働災害補償共済」を立ち上げ、仲間を守る制度を築きました。
やがて活動は広がり、昭和五十四年(1979)には青年部合同研修会を開始。昭和五十六年(1981)には先進的なTQC(総合的品質管理)を導入し、平成四年(1992)には後継者育成研修会が始まります。そこには、ただ時代に流されるのではなく、未来を切り拓こうとする意志が脈打っているのです。
現在、全国連合兼喜会は東京に本部を置き、東京、名古屋、近畿、広島、四国、九州、北陸、東北、北海道、関東支店、横浜――十一の支部が互いに連携しながら運営されています。
その活動は多岐にわたり、定時総会や支部長会議、兼喜会報の発行、全国後継者育成研修をはじめ、災害防止活動や互助会の運営、職種別研究会や改善事例発表会、青年部による活動展開、さらには東日本大震災の復旧対応に象徴されるような緊急支援体制の整備にまで及んでいます。
平成元年(1989)、清水建設は大きな決断を下しました。
兼喜会員を「シミズグループのかけがえのないパートナー」と位置づけ、その力を結集して活力と魅力にあふれるグループを築くため、社長直轄の「取引業者育成特別プロジェクト室」を設置したのです。
翌年(1990)、プロジェクト室は育成計画を打ち出し、清水建設と兼喜会がそれぞれの役割を担いながら、全国規模で推進が始まりました。全国連合兼喜会もまた、自助努力を重ね、各地域の特色を活かした具体策を次々と立案し、期待に応えるべく歩みを進めていきます。
やがて平成三年(1991)、清水建設は兼喜会の活動をさらに後押ししました。完成したばかりの新社屋・シーバンスS館の中に、兼喜会専用の事務室と会議室を設け、拠点として提供してくれたのです。さらに「新社屋完成記念ファンド」として活動資金を贈り、全国総会や後継者育成研修のために有効活用する道を拓いてくださいました。ここに、両者の固い絆と共存共栄の理念が、改めて形となって刻まれました。
しかし、兼喜会員にとって本当の挑戦はここからです。
社会や経済の環境が厳しさを増すなかで、一刻も早く自らを変革し、経営基盤を固めていくことが求められています。会員一人ひとりが問いかけねばなりません――「シミズグループのために、自分は何ができるのか? 何をやらねばならないのか?」と。
“技術の清水”を支える専門工事会社としての自覚を深め、実力を積み重ねること。それが兼喜会員に課せられた使命です。
そして現在。兼喜会は清水建設の指導のもと、全国横断のワーキンググループに参画し、三つの課題に取り組んでいます。
ひとつは、国の施策に呼応するための「産業政策推進」。
ひとつは、時代を問わず永遠に追い続けるべき「生産性向上」。
そしてもうひとつは、未来の現場を支える「担い手の確保と育成」。
私たち兼喜会員は、この三つの旗を掲げ、己を磨き、力を高めながら清水建設と一体となって進みます。どのような困難が訪れようとも、共存共栄の道を歩み続ける――それが、今も未来も変わらぬ誓いなのです。